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鳥取NOW 2006 SPRING VOLUME 69
遥かなる垂直分布の世界へ 表情豊かに物語る峠を行く
遥かなる垂直分布の世界へ 表情豊かに物語る峠を行く 文・写真=檀上俊雄

大山通いの道すがら、中国山地を越える峠に立ち寄るのが楽しみであった。 鳥取には峠が多く、旧道が樹林の中に一筋の道として残り、往時の面影を今に伝えている。
早春のまだ冬の厳しさが残る頃に「峠の様子を見に行きませんか」と編集長から誘われ、春を待ちわびる峠越えの旅人を想い浮かべつつ、いくつかの峠道を訪ね歩いてみた。

檀上俊雄(だんじょうとしお) 檀上俊雄(だんじょうとしお)
広島県尾道市生まれ。立命館大学地理学科卒業後、株式会社昭文社大阪支社に入社。地図、旅行書編集ひとすじに約27年取り組み、エコツアーの可能性を追求すべく2001年フリーに。滋賀県文化振興事業団発行の『湖国と文化−水源の森を訪ねて』(連載)、ヤマケイ関西BOOKS『比良山・湖西の山』(共著)。日本旅のペンクラブ会員、山と自然研究会「青山舎」代表

中央分水嶺の峠を想う

間地峠付近の旧街道跡

間地峠付近の旧街道跡

中央分水嶺(※)である中国山地と日本海の間に広がる鳥取は、地形模型のように多彩で美しい。広い裾野を持つ大山がランドマークとなっているが、東に高く峰を連ねて聳える氷ノ山や扇ノ山、広い平野や砂丘を作り上げた千代川、天神川、日野川の清流の存在も大きい。
  低い丘陵地帯で接する島根への行き来は容易であるが、京都、大阪や瀬戸内への道はすべて高い峠を越えることになる。中国山地は、なだらかな高原が広がる瀬戸内側に比べ、鳥取側は思いのほか険しい。


蒲生峠の石畳道

蒲生峠の石畳道


  日本海を北前船が行き来する江戸時代になると、海岸の港から川を高瀬舟がさかのぼるようになり、それは鉄道が開通するまで続く。人々は船を降りた後、千代川は用瀬や智頭、天神川は倉吉、日野川は根雨あたりから歩くことになるが、多くの荷物は牛馬や荷車に積み変えられて峠道を越えた。
  これらの峠は、古代から山陰道や出雲街道等で京の都と結ばれていた。江戸への参勤交代の為に街道が整備されると、武士だけではなく、塩などの生活必需品や鳥取で作られたものを扱う多くの商人が行き交うようになる。


ササに埋まる石仏(四十曲峠)

ササに埋まる石仏(四十曲峠)

  峠道が整備され、旅籠やお助け小屋などができるのと前後して、出雲大社や大山への参拝に訪れる人が増えたことも注目すべきだろう。世間を知る旅が許されなかったこの時代、「祈りの旅」は、多くの人には世間を知る「手段」であった。経済的にも政治的にも誘いあって行く旅は許されなかった為に、皆で講を組んで(積み立てをして)順番に出かけたという。
  峠を越えるということは、垂直分布の世界への旅立ちである。植物だけではなく、河口、下流、中流、上流を眺めて川の仕組みを知ることとなり、海に生きる人びと、水郷に生きる人びと、里山に生きる人びと、城下や宿場などのまちに生きる人びと、そして山に生きる人びとの暮らしぶりにもふれる。


蒲生峠はここからはじまる

蒲生峠はここからはじまる

  昔の旅人は旅先での知識をあまり持ち合わせていない。山に生きる人びと、木地師をはじめ炭焼き、猟師、たたらや鉱山採掘の山師などの道案内や助けがあってこそ、峠越えを安全に行うことができたのである。
  峠道は今も人と自然の出会う場所。車でトンネルを通り抜けるだけではなく、旧道に歩を進めると、水源の森の豊かな生態系に接することができ、路傍の石仏などを見ると、ここを越えた人びとの苦労の一端がうかがい知れる。そして訪れる私たちは、久遠の旅人のひとりとしての自分の存在に気づくことになる。

※分水嶺(水界ともいう)とは、異なる水系の境界線を指す地理用語。太平洋側と日本海側とを分かつ分水嶺を中央分水嶺と呼ぶ。


蒲生峠(がもうとうげ)ー守られ引き継がれる道

うずたかく積もる落葉をかき分けて咲くショウジョウバカマ。山の神への古道分岐付近

うずたかく積もる落葉をかき分けて咲くショウジョウバカマ。山の神への古道分岐付近

車で東から国道9号を鳥取に向かうと、いくつもの峠を長いトンネルで抜け、最後にして最大のこの峠となる。中央分水嶺から派生する扇ノ山と浦富海岸の間にあって、樹林の旧国道から峠を越えると棚田を前景に広々とした山河が広がる。
  この峠の素晴らしさは、車道になる前の明治時代に整備した旧道や、それ以前の古道が地元の人々によって大切に守られていることにある。旧道は「山陰道蒲生峠越」として、歴史の道百選に指定されている。


峠の入口塩谷集落

峠の入口塩谷集落

山陰道は、蒲生峠から鳥取まで、現在の国道9号とルートが異なっていて、今は棚田百選に指定されている横尾の棚田の脇を下り、再び険しい十王峠を越えて国府へ出ていたという。これを雨滝街道と呼ぶ。周辺には古くからの銀山や銅山があり、牛ケ峰などの宗教の聖地もあった。
  岩美町教育委員会の中村勝彦さんらに案内され、鳥取県側の旧道やその前の古道をたどってみる。明治時代に作られたというのに、一定の傾斜でありながら単調でなく道の造りが丁寧だ。また、地形を読んだ無理のないルート選定が巧みで、風景が移り変わり旅人を飽きさせないのだ。
  旧道の入口は塩谷の集落である。蒲生トンネルへの車道の脇にある集落の一角に六地蔵が残る。ここから蒲生川支流を渡って谷あいを進むと、トンネル手前の流れの集まる出合から左岸の斜面に、道は大きくカーブして上がっている。そこに棚田が現れた。隣接する杉林にもひな壇が残っており、棚田であったことがわかる。
  そのまま進んでいくと、やがて石畳道となる。周りは林床がササで覆われた美しい自然林でベンチが設置されており、休憩するのにいい場所だ。とはいえ荷物を運んだ人にとっては傾斜が急になり難儀だったことだろう。すぐに石畳はなくなるが、棚田跡や向いの山並みも見えてくる。


荷車の通っていた峠道は地元で整備され、往時の佇まいを今に伝える。小振りのサクラが目にやさしい

荷車の通っていた峠道は地元で整備され、往時の佇まいを今に伝える。小振りのサクラが目にやさしい

  ここから古道が分岐しているのだが、山ノ神集落の谷あいからコナラや赤松の目立つ尾根を巻いて登る道で、こちらもまた味わい深い。登り口には手作りの標識も掲げられ、大切に守られていることがわかる。
  沢の源頭を横切ってその古道跡と思われる道を合わせ、深い杉林を抜けるとやがて旧道は真新しい休憩舎の前を通り車道と出合い、蒲生峠へ着く。往時は茶店もあって賑わったという。車道脇には延命地蔵があって訪れる旅人を見守り続けている。旧道開通を記念して建立されたが盗難にあい、歴史の道指定を期に再建されたものだ。隣に立つ「往来人安全」と大きく彫られた石碑といい、昔から今日まで変わることなく引き継がれている、地元の人の峠道を守る熱い思いが伝わってくる。


蒲生峠MAP

●山陰道:本来は古代行政区である5畿7道のひとつで、丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐の8カ国で構成されていた。現在は、京都、兵庫、鳥取、島根、山口の5府県の日本海沿いに走る国道9号線として、ほぼ踏襲されている。(鳥取県教委発行「歴史の道調査報告書」参考)
●歴史の道百選:蒲生峠越の旧道は、山陰道の古道で豊臣秀吉が因幡攻めに通ったとも云われる。保存状態が良く1996(平成8)年に「歴史の道百選」に選定され、2005(平成17)年には国史跡にも指定された。「歴史の道」で国史跡に指定されるのは県内で初、西日本でも4番目。


人形峠(にんぎょうとうげ)ー伝説と木地師の道


四月が間近だというのに人形峠は深い雪の中だった。

四月が間近だというのに人形峠は深い雪の中だった。

ウランで有名な、倉吉と津山(岡山県)を結ぶ峠である。峠名の由来となる、大蜘蛛退治に美しい女の人形の登場する伝説からして興味深いものがある。旅好きの人には、保養温泉として名高い三朝温泉と奥津温泉を結ぶ峠といった方がわかりやすいかもしれない。
  中国自動車道・院庄インターから国道179号で人形峠のトンネルを抜けると、鳥取側の登り口である木地山へはあっという間だ。


人形仙一里松から峠の山並を望む。古道はまだ雪の下だった

人形仙一里松から峠の山並を望む。古道はまだ雪の下だった

こぢんまりとした集落のはずれに墓地があって、小椋姓が並ぶ。山に生きた誇り高き人々を祖先に持つ集落にちがいない。
  自然林の急斜面が続く山は深い雪にすっかり埋まっていて、歩くことは断念せざるを得なかった。しかし郷土史家・日野拓郎さんの地理と歴史、民俗をあわせた地域学ともいうべき興味深い話を、木地山集落入口の園地で聞きながら、山を眺めると、峠のことを思い浮べることができた。
  峠の入口は木地山上流の、栗祖という集落跡の手前からであり、名残りをとどめるものは「偉い修験者がここで息絶えた」という言い伝えがある一里松だけだ。
  往時には人形仙番所がここに置かれたこともあり、岡山側の上斎原の人が母子地蔵を峠に祀ったという。人形を使った疫病封じの言い伝えも残ることから、往来は頻繁だったようだ。
明治始めの文書には霊場めぐりにちなむ名称である札場峠と記されていて、人形峠という呼び方はそれ以降のものという。中国山地は木地師やたたらの歴史が色濃く残る土地であり、倉吉と津山を結ぶとなれば、多くのものが運ばれた道でもあったにちがいない。


峠道を行き交う旅人を見守り続けた人形仙一里松

峠道を行き交う旅人を見守り続けた人形仙一里松

 聞けば、ここ木地山にも鉄山があってたたらが行われていて、村の人もそれに使う大量の炭を焼いたという。日野さんが自らも参加したという遺跡調査の結果をふまえて、「この峠は生活の道や祈りの道だけではなく鉄の道でもあった」という言葉が印象に残った。
  古い時代の日本は銀山、銅山をはじめ多くの地下資源を産出する国であった。各種鉱脈は日本海側に多く、船で運ぶ危険を避けて陸路が多かった。今はのどかな田舎や峠道に見えても、掘り出せばそうした栄光の歴史がある。建物は朽ちても、道形や石積みはいつまでも残り、私たちに歴史ロマンを伝えてくれる。


人形峠MAP

●人形峠の伝説:人形峠の名前は、昔、峠越えをする人を悩ませた大蜘蛛を、侍が女性の人形をおとりにして退治したという伝説にちなむ。しかしこの伝説は、鳥取県側のみで岡山県側では、蜘蛛ではなく蜂の伝説が「作陽誌」に残されているという。


四十曲峠(しじゅうまがりとうげ)ー出雲街道随一の険しい道


小雨に濡れしっとりとした峠道を歩く

小雨に濡れしっとりとした峠道を歩く

名前を見ただけでも、険しく長い峠であることが連想される。四十曲峠は、参勤交代の為に整備された出雲街道随一の険路であり、江戸への道のりでの最大の難所である箱根越えと双璧であったという。
  この峠の全行程を歩いて調査したという郷土史家・南波陸人さんに「せっかくですから峠だけではなく、出雲街道沿いに行ってみましょう」と誘われて、車に同乗した。溝口の渡しから始まり二部宿、間地峠を経て、四十曲峠手前の根雨に至るまで、車中で詳細な解説を聞けたことは幸いであった。四十曲峠は、周囲から抜きん出て高い峠ではない。聞けば、二部宿を朝出て根雨で休み、峠を越えて新庄宿までが一日の行程であった。難所というからには、前後してある峠を含むことはまちがいない。前に間地峠、後に嵐ケ乢があり、旅人にとっては全体をあわせて四十曲峠越えという感覚だったのではないだろうか。


日野川左岸の舟場からすぐの古い佇まいの街道

日野川左岸の舟場からすぐの古い佇まいの街道

  大山牛市の博労が、帰路ここで慰労をしたという高尾で明地峠への道を分け、峠と共に歴史を刻む金持を過ぎると、車道は傾斜を増す。峠のトンネル手前で旧道が急斜面に延びる。このあたりを乢根と呼び、峠の物資運搬を担う5軒の集落があったところだ。
  車から降り、トンネル工事で峠への登り口に移された地蔵に手を合わせ、ハードルのように雪に倒れた杉をぬって少し登ってみる。ここも旧道、新道、トンネル道路と100年ほどの間にルートが変わるが、歴史的にも産業的にも貴重な遺産である。
  トンネルを抜け岡山県の新庄宿へ出て、岡山側から峠をめざす。上鳥羽上皇配流の道・史跡を見て嵐ケ乢を越え、茶屋集落としての由来を持つ二ツ橋へたどりつく。2つの峠の間の乢根と同様に5軒の茶屋集落である。もっとも今日では倍以上の軒数になっている。
  集落の入口には、よく手入れされた六地蔵を安置するお堂がある。中国山地特有の隆起準平原の山上集落は、穏やかな佇まいをとどめ印象深いものであった。峠まで車道が続くが、やはり高所にあるだけに雪に埋もれていた。四十曲峠は、先の蒲生峠や人形峠と同じように遥かなる峠であった。


根雨宿の町並み

根雨宿の町並み

  日本の豊かな時代しか知らない私たち。親や祖先の越えてきた昔の峠道に思いを馳せてみれば、激動の現代に生じたギャップを埋めることにもつながるかもしれない。鳥取の数々の峠を訪ね、そんなことを思った。そして、車道の脇の薮に埋もれる旧道や古道を残す憧れの樹林の峠に再訪を期したのだ。


四十曲峠MAP

●出雲街道と四十曲峠:出雲国から伯耆国会見郡、日野郡を経て四十曲峠を越え、美作国津山を経て播磨国姫路へ至り、畿内へと結ぶ道。四十曲峠は、「四十九の曲がり」あるいは「始終曲がる」との名前の由来があるほど、越えるのに困難な峠だった。後鳥羽上皇や後醍醐天皇の隠岐配流の道とも伝えられている。(平凡社発行「鳥取県の地名」参考)
●間地峠の茶屋:明治の始めまで3軒ほどの茶屋があり、出雲大社への参拝客や旅人の憩いの場だった。2005年6月、1日限りの茶屋を復活させ好評だったことから、今年も6月11日に茶屋を復元する。

問合わせ先: 鳥取県日野総合事務所県民局 0859‐72‐2083


鳥取の峠アラカルト


十王峠。蒲生峠から鳥取への古いルート。蒲生峠以上に険しい

十王峠。蒲生峠から鳥取への古いルート。蒲生峠以上に険しい

山に囲まれた鳥取には多くの峠があるが、中央分水嶺である中国山地を横断する峠に、鳥取ならではの峠越えの醍醐味がある。尾根の低く凹んだ所や鞍部という地形的な意味合いが強い乢という呼び方が多いのも興味深い。
  蒲生峠は中央分水嶺にはないが、氷ノ山から派生する扇ノ山の山稜はそれを上回るスケールを持つ。そして歴史の道・蒲生峠と共に歩くにふさわしい峠といえば、松江の殿様が越えた四十曲峠に対して鳥取の殿様の参勤交代に使われた志戸坂峠がある。さらにこの西側には石灯籠や石仏が大切に残され、ゴミひとつなく心がなごむ右手峠も控えている。
  高原状の瀬戸内側に対して急峻な鳥取側という地形的な特徴から、峠を越えると鳥取側に展望が開けることが多い。西日本を代表するといわれる大山寺の牛市へ向かう千屋牛などが、博労に引かれて通ったという明地峠などは特に雄大。また戸倉峠や黒尾峠、辰巳峠、犬挟峠も負けてはいない。
  とはいえ鳥取のランドマーク大山を含めて考えれば、蒜山盆地から南大山へ越える内海乢は別格ということになる。峠から広域林道で隣接する三平山の肩に出れば、大山南壁から烏ケ山の鋭峰と広大な裾野が大迫力で望め、鳥取の素晴らしさを実感することはまちがいない。
  伯備線と主要地方道が並走して越える谷田峠も特筆すべきものがある。海、里、山と見事に共生しながら生きる人びとの風土である鳥取にふさわしい峠といえるだろう。清流日野川に沿ってさかのぼり、源流地帯ののどかな高原風景を車窓から楽しんでいる間に、知らぬ間に越えてしまうかわいい峠である。因備線の越える物見峠もこれに似ている。


鳥取NOW Vol.70
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